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慶応元年十二月~慶応二年二月の長州藩内のクーデターの動きは質問者様のおっしゃる通りだと思います。しかし長州藩の方針は武備恭順のままであり、幕府方が長州藩内の権力の推移を知らず、正義派が俗論派に一掃されたのを信じていれば長州藩の状況と幕府の対長州方針に矛盾があってもおかしくないのでは。通信機能の乏しい当時はリアルタイムで相手の動きは分かりませんからね。著者が両者の記録を有りのまま記載していれば誤解の生じる危険性はありますね。

高杉晋作「奇兵隊」これが歴史に残る「奇兵隊」とすることができたのか教えて下さい。
様々の次元から光を当てることができると思いますので、あなたの論でもかまいませんし、他の方の論でもかまいません。

・・・
池田大作氏が考えるポイントとして、この4つをあげています。
1.根幹に「師弟の志が」があったこと。
2.おもしろきこともなき世をおもしろく。下方彩純のブログであったこと。
3.高杉晋作が、皆に誇りと責任を与えたこと。
4.電光石火のスピードで動いたこと。

・・・・。まあ、大村

益次郎を抜きに日本の軍隊の歴史を語ることは出来ないと思います

一言で言えば、長州藩は西洋兵学の導入に成功したからです。

実は、寛政年間に、ロシア船の接近により、幕府は対外危機を募らせ、西洋兵学を取り入れる派と保守派は対立しました。
それは幕末まで続きます。一部の蘭学を学ぶ幕臣が研究しました。勝海舟もこの流れでしょうね。

先進的とされた長州藩でさえ、神童と誉れ高い少年時代の吉田松陰に「山鹿流」を元に外国を想定した演習をしたくらいです。
アヘン戦争の中国の惨敗、下関戦争後、考えを改めます。

大村益次郎の農兵論は、武士よりも農民の方が、体力があり戦争に向いている。という事です。

余談ですが、明治期に外国人の手記で、人力車は横浜から長野軽井沢まで、わずかな休憩時間で走破したそうです。
(庶民が食べる、粗食は肝機能を高める効果があったのが理由ではないか?という論調でした。)

一方武士は、ペリーが来てから、講武所を立てるくらいの現状だったようです。元禄期の武士の日記では、かなり、サラリーマン化していたようです。

後は、長州藩は村田清風の改革により、財政的に余裕があったのと、外様の大名として、徳川家に恨みがありました。
ややこしいのですが、攘夷を主張したのも、勤皇派に世論が傾いたのも、その感情があったからです。


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